ドキュメントは書き捨てて良い

仕事でドキュメントを書くと「それはメンテナンスし続けられるのか?」と問われることがある。

そう問われる度に立ち止まって、「どうだろうか?」と真摯に考えてしまう。

メンテナンスに責任が持てないのなら、そもそも「書く」こと自体を見直した方が良いのでは?となり、書くことをやめる場合も多い。

これは立ち止まって “そもそも” という前提を疑って、より良い解決アプローチはないのか?を考える良い問いだ。

ただ、メンテナンスを理由に思考を書き出さないこと、客観性を持った記録として情報や考えを残すことを諦めるのは必ずしも良いとは思わない。

“ドキュメントは書き捨てても良い” という考えがもっと広まってほしい。

ドキュメントはメンテナンスされている / されていないという二元論で語られることが多いが、それは考えとして浅い、捉え方として解像度が低い、視野が狭い。

ドキュメントの状態にはもっとグラデーションがある。

  • 内容 : 手順なのか、提案なのか、考えの整理なのか、意思決定の記録なのか
  • 時間軸 : いつの時点のものなのか、未来に向けてなのか、過去に向けてなのか
  • 頻度 : 毎日見るのか、週一で見るのか、月一で見るのか
  • 目的 : 情報共有, 思考整理, 議論, 論点整理
  • 範囲 : 組織全体, プロジェクト全体, チーム全体, 個人
  • フォーマット : 報告, 連絡, 相談, 検討, 議論, 提案
  • 人 : 誰向けに書かれているのか、メンバー, マネージャー, 古参, 新参者

パッと思い浮かんだだけでドキュメントを構成する変数は多くある。

メンテナンスが求められるのは、情報の正確性が重要になるシーンで使われるドキュメントで、解釈に揺らぎがあることにより問題が起きる、期待と異なる行動に行き着く可能性がある場合には、継続的に修正が加えられて「てにをは」レベルで正しい表現であった方が良い。

一方で、考えの整理や意思決定の記録などは多少正確性が欠けていたとしても、問題が起きることは少ない。少なくとも4~5年ドキュメントを中心に据えて仕事を進めてきた自身の経験では、正確性を理由に問題に遭遇したことは1度もない。(あるかもしれないが、記憶にないので大した問題にはなっていない)

仮に今時点での正確性が求められていないドキュメントに対して、その正確性を確認したくなった場合は、ドキュメントを持って執筆者に直接声をかけ、「この章のこの一節は今でも正しい定義ですか?」と問えば良い。

”ドキュメントがそこにある” という状態と1つの単純な問いだけで、問題解決に至れる。

メンテナンスに対する責任や負担を過剰に考えてしまうのは勿体無い。

「書き捨てても良い」「書き捨てられたものでも価値がある」という考え方になれば、成果の出し方、出す過程も変わるかもしれない。

ドキュメントは静的な存在ではなく、問いを生み出し、答えを導くための動的な道具だと捉えている。

その特性を信じて、もっと軽く「書き捨てる」ことができるようになれば、ドキュメントが組織やプロジェクトにとって、単なる情報の蓄積ではなく、思考や議論を促す道具として機能するようになるのではないか。

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