火中の栗を拾う

「最近どんな感じですか?」ということを仕事の合間にあった雑談で聞かれたときに、ふと「相変わらず、火中の栗を拾いまくってますよ」なんて答えた。

自分でもこの言葉を無意識に選んでいたことに後で驚いたが、実に的を得てる表現ではあった。

最近は新規開発ではなく、運用方面の対応に集中している。色々と大変ではあって、頭を悩ませながら取り組んでいる。

これまでも開発運用をやってきたが、これほどシビアな状況は経験がなく、今が1番事に向き合っている気持ちが強い。

運用対応の中身は9割がネガティブ起因の話であったりするので、苦しみと申し訳なさを足して10倍にした気持ちになるけど、誤解を恐れずに言えばおもしろさもある。

おもしろいという表現を言い換えると、学びがあるとも言える。

自分は学ぶこと、未知に気づくことそれ自体におもしろさを感じるので、この状況を貴重な機会だと捉え直している。

特に関心の深いテーマは、考慮と仕様と調整。

何を考慮して、何を考慮しないのか。

仕様では何を決めて、何を決めないか。

設計、実装、運用の調整をどう捌くか。

これらのYes/Noの答えが「火中の栗を拾う」中で明らかにされていく感覚が毎日ある。

明らかにされていくとは、概念や考えに線引きが引かれて、輪郭が掴めてくるというもの。

考慮しなければいけない範囲がより明確になるイメージ。 "どうすればよかったか" のフィードバックが強烈なので、自分の中での消化も早い。

迷惑をかけてしまっていることに申し訳なさはあるのだが、痛みを伴った教訓として得ているものは大きい。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。

自分は明らかに愚者だ。経験からしか真の知恵は得られないと思っている。

一つずつ気づきを血肉にして、賭けられた期待に応えていかなければという緊張感を大事にしていきたい。

自分の利益にならないのに、危険をおかすことのたとえ。
また、危険を承知で、あえて問題の処理や責任ある立場を引き受けることのたとえ。

参考

ちなみに、損得感情は全くなく、事に向かうために危険を承知でも引き受けているという意味が強い。

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